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田淵といいます。改宗者: モルモン書, ボーイスカウト, 癌, 元警察官, 伝道, 改宗者, モルモン.

こんにちは,わたしは田淵といいます。改宗者です。

わたしについて

私は現在、団体職員として東京で働いています。私は中学~大学時代にボーイスカウト活動をしていたことから、キャンプ等のアウトドアが大好きで、他にも旅行・映画鑑賞・スポーツ観戦(特に5年程前にFCバルセロナのホームスタジアムのカンプノウを訪れてからは、スペインサッカー・リーガエスパニョーラの大のバルサ・ファンで、ホームのカンプノウで行われる試合では毎試合『イムノ』を歌って応援する、自称バルセロニスタです)・音楽鑑賞(特に70~85’の海外ポップス)が私の趣味です。2007年に癌である事が分かり手術しましたが、2010年に再発、さらに翌年2011年にも再々発し、2011年10月から1年間抗癌剤による治療のため休職させていただいていましたが、今は仕事に復帰しています。

わたしはなぜモルモンなのですか

小学3年生の時、学校の正門で配布されていた無料の新約聖書を読んだのが、最初の出会いでした。13歳でボーイスカウトに加入し、原典である『スカウティング・フォア・ボーイズ』を読んで、スカウトの約束である「神と国とに誠を尽くし」という言葉の真意を学んで、私は無宗教でしたが、キリスト教に強い関心を持つようになりました。更に、高校の授業でイエス・キリストの事を学んでいる内に、「どこかの教会に入りたい」と、熱望しましたが、まだ「どこが正しい教会なのか」私には分かりませんでした。しかし、1981年に時が満ち、大学ローバーの赤津先輩から光を感じ、「彼女の行っている教会の事を知りたい」と具体的に望み、宣教師から『モルモン書』やジョセフ・スミスの最初の示現の事を伺い、次のレッスンまでに第2ニーファイを読み終えた時、バプテスマを受けたいと望み、真理を求めていた私は、彼らが勧めるモロナイ10:3-5の約束を試してみました。『モルモン書』を読んで、それについて深く考え、イエス・キリストの御名によって、天の父なる神に祈った時、神から遣わされる聖霊の力(何か暖かく真理だという確信)を感じ、「モルモン書が真実であり、末日聖徒イエス・キリスト教会が唯一の真の教会である事」が分かり、1981年2月15日にモルモンに改宗しました。1984年に大学を卒業し千葉県警に就職する事が決まっていた私は、千葉の教会の川島兄弟から祝福師の祝福についてお聞きして、祝福師の祝福を受けたいと思い、警察学校に入所してから、教官に外出許可をもらって、水戸まで往復6時間かけて祝福を受けに行きましたが、その祝福の中で「宣教師になる」事を隋所に述べられていた私は、宿舎に戻ってから、その事について熱心に祈ったところ、「伝道に出るべきだ」と聖霊の力を感じ、12月に警察官を辞職し、翌1985年3月に伝道に出ました。 2007年から私の体は癌に侵され続けました。しかし私は次の3つの聖句から、自分が癌になった体験とイエス・キリストの贖いとの関連性を認識しました。「息子よ、あなたはこの事を知りなさい。即ち、これらの事は全て、あなたに経験を与え、あなたの益となるであろう。人の子(イエス・キリスト)はこれら全ての下に身を落とした。」(教義と聖約122:7-8)「神の御子は、あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。これは、神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉が成就する為である。また神の御子は、御自分の民を束縛している死の縄目を解く為に、御自身に死を受けられる。また神の御子は、肉において御自分の心が憐れみで満たされるように、また御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知る事ができるように、彼らの弱さを御自分に受けられる。さて、御霊は全ての事を御存じである。にもかかわらず、神の御子は御自分の民の罪を負い、御自分の解放の力によって彼らの背きを取り消す為に、肉において苦しみを受けられる。さて見よ、これが私の内にある証である。」(アルマ7:11-13)「もし人が私(イエス・キリスト)の元に来るならば、私は彼らに各々の弱さを示そう。私は人を謙遜にする為に、人に弱さを与える。私の前に遜る全ての者に対して、私の恵みは十分である。もし彼らが私の前に遜り、私を信じるならば、その時、私は彼らの弱さを強さに変えよう。見よ、私は異邦人に彼らの弱さを示し、また信仰と希望と慈愛が彼らを私の元に、即ち、あらゆる義の源に導く事を彼らに示そう。」(エテル12:27-28)主が生きて私達を導いておられる事を証します。

個人の体験談

人生の目的を理解するうえでモルモン書はどのように役立っていますか。

聖書だけでは神に関しての情報量が絶対的に足りないところを、「イエス・キリストについてのもう一つの証」である『モルモン書』が完全に補完しています。『神と自分との関係』が、『霊の父親と子供との親子関係』であることが分かると、『人生の目的』に対する物の考え方がまったく違ったものとなってきます。また、モルモン書のアルマ41:11(P.430下段)に「この世で神なしに生きている人々」について書かれていますが、もしあなたがモルモン書のモロナイ10:3-5(P.742上段)に書かれている、私達一人一人にとって最も大切な神の約束を、あなたが信仰をもって試してみるならば、神から遣わされる『聖霊の力』によって、神が実際に生きていらっしゃることを知ることができ、これまで『人生の目的』が何か分からずに闇雲に生きてきた自分ではなく、モルモン書を通して『人生の目的』をはっきり知ったあなたは、その真の目的に向かって真っ直ぐ歩むことができ、本当に意義深く、喜びに満ち溢れた人生を送ることができるようになる(『永遠の命』を得る)ことを証詞いたします。詳しくは、私のFacebookの『好きな言葉』を見ていただければ、具体的な聖句が書かれていますので、是非そこにリンクしていただければと思います。また、できましたら、あなたのご感想をお聞かせいただければと存じます。

福音の回復に関するあなたの気持ちや証を述べてください。

『福音の回復』に関しての聖句を通して説明させて頂きますと、まず大背教について、「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳障りのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みに任せて教師たちを寄せ集め、そして、真理から耳を背けて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」(2テモテ4:3-4)「誰がどんな事をしても、それに騙されてはならない。まず背教の事が起こり、不法の者、即ち、滅びの子が現れるに違いない。」(2テサロニケ2:3)イエス・キリストが復活されて間もなく、使徒たちが次々に迫害にあって殺され、人の解釈によって聖文も改ざんされて(1ニーファイ13:20-41)、この地上から完全な真理が無くなってしまった事から、約1800年後に主は再び真理を回復する業を行う事を預言者を通して語られました。「主は言われた、『この民は口をもって私に近づき、唇をもって私を敬うけれども、その心は私から遠く離れ、彼らの私をかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。それ故、見よ、私はこの民に、再び驚くべき業を行う、それは不思議な驚くべき業である。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、聡い人の知識は隠される』。」(イザヤ29:13-14)「その時あなたは深い地の中から物言い、低い塵の中から言葉を出す。あなたの言葉は亡霊のように地から出、あなたの言葉は塵の中から、さえずるようである。」(イザヤ29:4)「私はモルモンの息子(モロナイ)であり、私の父はニーファイの子孫であった。私は、主に託してこの記録(モルモン書)を隠す者である。この記録の版(モルモン書)は、非常に価値がある。これを明るみに出す力は、神から与えられるのでなければ、誰も持つ事ができない。神は、神の栄光にひたすら目を向けながらこれ(モルモン書)を明るみに出すように、或いは長い間散らされている昔の主の聖約の民(イスラエルの民)の幸いの為にこれを行うように望んでおられる。この記録(モルモン書)を明るみに出す者(ジョセフ・スミス)は幸いである。神の言葉の通りに、これ(モルモン書)は暗闇から明るみに出される。まことに、これ(モルモン書)は地から出され、暗闇から輝き出て、民に知られるようになる。それは神の力によって行われる。」(モルモン8:13-16、JS歴史1:5-19)「私はもう一人の御使い(天使モロナイ)が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、即ち、あらゆる国民、部族、国語(の民)、民族に宣べ伝えらる為に、永遠の福音を携えて来て、大声で言った、『神を畏れ、神に栄光を帰せよ。神の裁きの時が来たからである。天と地と海と水の源とを造られた方を、伏し拝め』。」(黙示14:6-7)

バプテスマについて教えてください。

イエス・キリストはバプテスマについて聖典では次のように述べられています。「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』。イエスは答えられた、『誰でも、水(によるバプテスマ)と(火と聖)霊(によるバプテスマ)とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である』。」(ヨハネ3:3-6)そして、イエス・キリストは自らバプテスマの方法を模範によって示されました。「その時イエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、(バプテスマの)ヨハネの所に来て、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、『私こそバプテスマを受ける筈ですのに、あなたが私の所においでになるのですか』。しかし、イエスは答えて言われた、『今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々にふさわしいことである』。そこでヨハネはイエスの言われる通りにした。イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊が鳩のように自分の上に下って来るのを、御覧になった。また天から声があって(天の父なる神が)言った、『これは私の愛する子、私の心にかなう者である』。」(マタイ3:13-17、3ニーファイ11:21-40)「おお、それで、私の愛する同胞よ、聖者なる主(イエス・キリスト)のみもとに来なさい。主の道が義にかなっていることを覚えておきなさい。見よ、その道は人にとって狭いが、人の前に真っ直ぐであり、門を守る者はイスラエルの聖者(イエス・キリスト)である。聖者はここには僕を使われない。またその門(バプテスマ)を通る以外に、他の道はない。そしてその御方を欺くことはできない。その御方は、主なる神だからである。」(2ニーファイ9:41)「あなたがたが入らなければならない門とは、悔い改めと、水によるバプテスマである。そうすれば、火と聖霊によって罪の赦しが与えられる。その時、あなたがたは、永遠の命に至る細くて狭い道にいることになる。まことに、あなたがたはその門から入っている。あなたがたは(天の)御父と御子(イエス・キリスト)の戒めに従ってこのように行っている。またあなたがたは、御父と御子について証をされる聖霊を受けている。こうして、その方法によって入るならば受けると主が約束された、その約束が果たされたのである。」(2ニーファイ31:17-18,ヨハネ15:26-16:15)その時に、天の御父なる神と交わされるバプテスマの聖約は次の通りです。「あなたがたは神の羊の群れに入って、神の民と呼ばれたいと願っており、重荷が軽くなるように、互いに重荷を負い合うことを望み、また、悲しむ者と共に悲しみ、慰めの要る者を慰めることを望み、また神に贖われ、第一の復活にあずかる人々と共に数えられて永遠の命を得られるように、どのようなことについても、どのような所にいても、死に至るまでも神の証人になることを望んでいる。まことに、私はあなたがたに言う。あなたがたが心からこれを望んでいるのであれば、主から益々豊かに御霊を注いでいただけるように、主に仕えて主の戒めを守るという聖約を主と交わした証拠として、主の御名によってバプテスマを受けるのに何の差し支えがあろうか。」(モーサヤ18:8-10)水に沈められるバプテスマの意味について預言者であるジョセフ・スミスJr.は主からの啓示として次のように述べています。「水によるバプテスマの儀式、すなわち死者の有様に応じるために水に沈められることに、栄光と誉れ、および不死不滅と永遠の命があります。死者の有様にそって水中に沈められるのは、一つの原則が他の原則に一致するためです。水中に沈められ、そして水から出て来ることは、墓から出て来る死者の復活に似ています。したがって、この儀式は、死者の有様に似ているので、死者のためのバプテスマの儀式と関連するように制定されたのです。」

モルモン書はあなたをどのように神に近づけてくれますか。

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、またあなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17:3)「私(イエス・キリスト)や天におられるあなたがたの父が完全であるように、あなたがたも完全になることを、私は望んでいる。」(3ニーファイ12:48)「あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに、あなたがたに言う。私(イエス・キリスト)のようでなければならない。」(3ニーファイ27:27)旧約聖書には次のように書かれています。「神はまた言われた、『我々の形に、我々にかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分の形に人を創造された。すなわち、神の形に創造し、男と女とに創造された。」(創世1:26-27)さらに『高価な真珠』には次のように書かれています。「私の子モーセよ、私はあなたに一つの(救いの)業を用意している。あなたは私の独り子(イエス・キリスト)にかたどられている。私の独り子は現在も将来も救い主である。彼は真理に満ちているからである。」(モーセ1:6)「見よ、主の栄光がモーセの上にあったので、モーセは神の前に立ち、顔と顔を合わせて神と語った。そして、主なる神はモーセに言われた。『私自身に目的があってこれらのものを造った。ここに知恵があり、それは私の内にある。私の力の言葉によって、私はこれらのものを創造した。私の力の言葉とは、恵みと真理に満ちている独り子(イエス・キリスト)のことである。・・・見よ、人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これが私の業であり、私の栄光である。さて、私の子モーセよ、私はあなたが立っているこの地球についてあなたに語ろう。あなたは私が語ることを(モーセの五書)に書き記さなければならない。人の子らが私の言葉を価値のないものと見なし、あなたが書き記す書(モーセの五書)からその多く(の人の救いにとって大切な部分)を取り去る日に、見よ、私はあなたのような者(ジョセフ・スミス)を一人立てよう。そして、あなたが書き記すもの(完全な真理)は、人の子ら、すなわちそれら(モルモン書)を信じるすべての者の中に再びあるであろう。』」(モーセ1:31-32,39-41) 「あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつも留まっていなさい。あなたは、それを誰から学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべての神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良い業に対して十分な準備ができて、完全に整えられた者になるのである。」(2テモテ3:14-17)「私が書き記してきた(モルモン書)は、異邦人からこの民に再び伝えられる。彼らがまずこれ(モルモン書)を持つことは、彼らの信仰を試すのに必要である。彼らはこれ(モルモン書)を与えられた時、これらのことを信じるならば、その時にはもっと大いなることが彼らに明らかにされる。しかし、彼らがこれらのことを信じなければ、その時にはそれよりも大いなることは彼らに与えられることなく、彼らは罪の宣告を受けるであろう。見よ、主は、『私は自分の民の信仰を試みよう』と言われた。」(3ニーファイ26:8-11)『もっと大いなること』について、ジョセフ・スミスは次のように述べています。「『モルモン書』はこの世で最も正確な書物であり、私達の宗教のかなめ石である。そして、人はその教えを守ることにより、他のどの書物にも増して神に近づくことができる。」

ジョセフ・スミスについてあなたの気持と証を述べてください。

『旧約聖書』も含め『聖書』は、モーセ1:41に書かれているように、「人の子らが私(神)の言葉を価値のないものと見なし、あなた(モーセ)が書き記す書(モーセの五書)からその多く(の大切な真理)」を取り去」ってしまいました。特に、創世50章の最後の部分は読んでいても文章が不自然で、原文から削除され、書き換えられているのがはっきりと見て分ります。神が末日に真理を回復する目的で、ジョセフ・スミスJr.に啓示を与え、明らかにされたこの部分の最後の段落の霊感訳で、特に大切な部分だけ、以下に載せておきます。「ヨセフは兄弟たちに言った。『私はやがて死に、先祖の元に行きます。私は喜んで墓に入ります。父ヤコブの神はあなたがたと共にいて、奴隷の時代の苦難からあなたがたを救い出して下さるでしょう。主が私を訪れて下さり、私は主から約束を得たからです。すなわち、一本の義にかなった枝を起こし、父ヤコブがイスラエルと名付けたあなたのために(シロと呼ばれるメシヤではない)一人の預言者を立てられます。この預言者は、私の民を奴隷の時代にエジプトから救い出すことでしょう。それから、彼らは再び散らされます。一本の枝が折り取られ、遠い国に運ばれることでしょう。しかし、メシヤが来られる時に、彼らは主の聖約の中で思い起こされます。メシヤが力の御霊によって末日にその御姿を彼らに現し、彼らを暗闇から光に、隠れた暗闇と束縛から自由へ連れ出されるのです。主なる私の神は、一人の聖見者を立てられます。それは、私の腰から出た者のためのえり抜きの聖見者です。私の先祖の主なる神は、私にこう言われました。「私はあなたの腰から出た者の中から、一人のえり抜きの聖見者を立てよう。彼はあなたの腰から出た者の中で大いに尊ばれるであろう。私はその聖見者に、彼の同胞であるあなたの腰から出た者に知らせ、、また私が彼に命じる業を何でも行うであろう。彼は私の業を行うので、私は彼を、私の目にかなった偉大な者としよう。エジプトの地から私の民を救い出すために、おお、イスラエルの家よ、私があなたのために立てると言っておいた者のように、彼は偉大な者となるであろう。私は一人の聖見者を立て、私の民をエジプトの地から救い出そう。彼はモーセと呼ばれるであろう。彼はこの名によって、自分があなたの家の者であることを知る。彼は王の娘によって育てられ、彼女の息子と呼ばれる。さらにまた、私はあなたの腰から出た者の中から一人の聖見者を立て、私の言葉をあなたの腰から出た子孫に伝える力を彼に授けよう。また、私の言葉を伝えるだけでなく、終わりの時にすでに彼らの中に伝わっている私の言葉を確信させる力も授けよう。そのために、あなたの腰から出た者は書き記す。またユダの腰から出た者が書き記すものも書き記す。そして、あなたの腰から出た者が書き記すものと、ユダの腰から出た者が書き記すものは一つに合わされて、偽りの教義を打ち破り、争いを鎮め、あなたの腰から出た者の中に平和を確立し、また末日に先祖についての知識を彼らに与え、そしてまた、私の聖約についても知らせる。」主はそう言われます。「イスラエルの家に属する私の民を元通りにする私の業が、私のすべての民の中で進み行くその日、すなわち終わりの時に、その聖見者は弱きを強くされる。私はその聖見者を祝福する。そして、彼を滅ぼそうとする者は打ち破られる。私がこの約束をあなたに与えるからである。私はあなたを代々思い起こそう。その聖見者の名はヨセフ(英語読みで「ジョセフ」)と呼ばれ、それは父の名を取って(Jr.)付けられる。そして、彼はあなたのようである。主が彼の手によってもたらされるものが、私の民を救いに至らせるからである。・・・」』」(ジョセフ・スミス訳創世50:24-33)そういった意味では、ジョセフ・スミスJr.は、次のように言えると思います。「主の預言者であり聖見者であるジョセフ・スミスは、ただイエスは別として、この世に生を受けた他の如何なる人よりも、この世の人々の救いのために多くのことを成し遂げた。20年という短期間の内に、彼は、彼自身が神の賜物と力によって翻訳して、『モルモン書』を出し、その書に載っている完全な永遠の福音を地の四方に送り出した。彼は神とその民の目に偉大な者として生き、偉大な者として死んだ。そして、昔の、主の油注がれた者のほとんどがそうであったように、彼は、自らの血にをもって自分の使命と業を証明したのである。」(D&C135:3,6,7)

聖霊はあなたをどのように助けてこられましたか。

殆どの方は『聖霊』と聞くと、「精霊」「生霊」を想像しがちですが、福音が教えるところの『聖霊』は、「天の父なる神」と「イエス・キリスト」に次ぐ、神会の御三方のお一人です。その事について、聖典では次のように書かれています。「見よ、真に、真に、貴方方に言う。貴方方に私(イエス・キリスト)の教義を告げよう。これから述べるのが私の教義であり、父(なる神)が私(イエス・キリスト)に与えて下さった教義である。私(イエス・キリスト)は父(なる神)のことを証し、父(なる神)は私(イエス・キリスト)の事を証され、聖霊は父(なる神)と私(イエス・キリスト)の事を証する。父(なる神)は、どこにいる人でも全ての人に、悔い改めて私(イエス・キリスト)を信じるように命じられておられる事を、私は証する。私(イエス・キリスト)を信じてバプテスマを受ける者は、誰でも救われる。神の王国を受け継ぐのはこれらの者である。真に、真に、貴方方に言う。これが私の教義である。私は、父(なる神)から告げられた通りにこれを証する。私(イエス・キリスト)を信じる者は父(なる神)をも信じるのである。その者に、父(なる神)は私(イエス・キリスト)の事を証されるであろう。父(なる神)はその者に火と聖霊を与えられる。このようにして、父(なる神)は私(イエス・キリスト)の事を証され、聖霊はその者に父(なる神)と私(イエス・キリスト)の事を証する。父(なる神)と私(イエス・キリスト)と聖霊は(目的において)一つである。」(3ニーファイ11:31-36)「私(イエス・キリスト)が父(なる神)のみもとから貴方方に遣わそうとしている助け主(聖霊)、即ち、父(なる神)のみもとから来る真理の御霊が下る時、それは私(イエス・キリスト)について証するであろう。貴方方も、初め(前世)から私(イエス・キリスト)の名によって遣わされる聖霊は、貴方方に全ての事を教え、又私(イエスキリスト)が話しておいた事を、悉く思い起こさせるであろう。」(ヨハネ14:26)「真理の御霊(聖霊)が来る時には、貴方方をあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、来たるべき事を貴方方に知らせるであろう。御霊(聖霊)は私(イエス・キリスト)に栄光を得させるであろう。私(イエス・キリスト)のものを受けて、それを貴方方に知らせるからである。父(なる神)がお持ちになっているものは皆、私(イエス・キリスト)のものである。御霊(聖霊)は私(イエス・キリスト)のものを受けて、それを貴方方に知らせるのだと、私が言ったのは、その為である。」(ヨハネ16:13-15)末日に授けられた聖典には更に詳しく書かれています。「創世の前に天において定められた不変の律法があり、全ての祝福はこれに基づいている。即ち、神から祝福を受ける時は、それが基づく律法にしたがう事によるのである。御父(神)は人間の体と同じように触れる事のできる骨肉の体を持っておられる。御子(イエス・キリスト)も同様である。しかし、聖霊は骨肉の体を持たず、霊の御方であられる。もしそうでなければ、聖霊は私達の内に留まり得ない。人は聖霊を受ける事ができる。」(D&C130:20-23)私達が聖霊との交わりを持つ特別な方法(約束)が『モルモン書』の最後の章に書かれています。「見よ、私は貴方方に勧めたい。貴方方にとってこの記録(モルモン書)を読む事が、神の知恵にかなうようであれば、貴方方はこれを読む時に、アダムが造られてから貴方方がこれを受ける時まで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。又、この記録(モルモン書)を受ける時、これ(モルモン書)が真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問う(祈る)ように、貴方方に勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問う(祈る)ならば、神はこれ(モルモン書)が真実である事を、聖霊の力によって貴方方に明らかにして下さる。そして聖霊の力によって、貴方方は全ての事の真理を知るであろう。」(モロナイ10:3-5)「見よ、貴方は理解していなかった。貴方は私(イエス・キリスト)に求めさえすれば、何も考えなくても私(イエス・キリスト)から与えられると思ってきた。しかし見よ、私は貴方に言う。貴方は心の中でそれをよく思い計り、その後、それが正しいかどうか私(イエス・キリスト)に尋ね(祈ら)なければならない。もしそれが正しければ、私は貴方の胸を(聖霊の力によって)内から燃やそう。それ故、貴方はそれが正しいと感じるであろう。」(D&C9:7-9)私はこれこそが、イエス・キリストが新約聖書のヨハネ4:21-26で言われている、『真の礼拝』(D&C93:19)である事を証いたします。

イエス・キリストを信じる信仰によってどのような祝福を得ていますか。

『信仰』とは何か。「真に、もし天からしるしを見せてくれれば、それが確かな事が分かるから信じようと言う人々が大勢いる。さて、私は尋ねる。これは信仰であろうか。見よ、私はそうではないと答える。もし人がある物事を知っているならば、それを信じる理由はない。既に知っているからである。さて、神の御心を知っていながらそれを行わない人は、ただ信じているだけである。さて、信仰とは物事を完全に知る事ではない。したがって、もし信仰があれば、あなたがたはまだ見ていない真実の事を待ち望むのである。」(アルマ32:17-21)末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰箇条第4条には、「私達は、福音の第一の原則と儀式とは、第一に主イエス・キリストを信じる信仰」とあり、これに関連して第3条には、「私達は、キリストの贖罪により、全人類は福音の律法と儀式に従う事によって救われ得ると信じる。」とあります。即ちただ単なる『信仰』ではなく、『イエス・キリストを信じる信仰』が救いの条件である事が分ります。「さて、キリストは死人の中から蘇ったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうした事か。もし死人の復活がないならば、キリストは蘇らなかったであろう。もしキリストが蘇らなかったとしたら、私達の宣教はむなしく、あなたがたの信仰も又むなしい。すると、私達は神に背く偽証人にさえなる訳だ。なぜなら、万一死人が蘇らないとしたら、私達は神が実際蘇らせなかった筈のキリストを蘇らせたと言って、神に反する証を立てた事になるからである。もし死人が蘇らないなら、キリストも蘇らなかったであろう。もしキリストが蘇らなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、今なお罪の中にいる事になろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者達は、滅んでしまったのである。もし私達が、この世の生活でキリストにあって単なる望みを抱いているだけだとすれば、私達は、全ての人の中で最も哀れむべき存在となる。」(1コリント15:12-19)そもそもなぜ『イエス・キリストを信じる信仰』が私達一人一人の救いの為に必要なのでしょうか。聖典では次のように教えています。「そして、彼らの中に神のような者(イエス・キリスト)が一人立ち、共にいた者達に言った。『あそこに空間があるので、私達は降って行こう。そして、これらの材料を取って、これらの者が住む地を造ろう。そして、私達はこれによって彼ら(の信仰)を試し、何であろうと、主なる彼らの神が命じられる全ての事を成すかどうかを見よう。第一の位(前世で信仰)を守る者は(肉体が)付け加えられるであろう。又、第一の位(前世で信仰)を守らない者(前世でサタンに従った3分の1の霊たち)は、第一の位(前世で信仰)を守る者(前世でイエス・キリストを支持した3分の2の霊たち)と同じ王国で栄光を受ける事はない。更に、第二の位(現世で信仰)を守る者は、とこしえにその頭に付け加えられるであろう。』」(アブラハム3:24-26)「主なる神である私は彼ら(アダムとエバ)を(エデンの園から)追い出した。アダムとその妻エバは主の名を呼び、エデンの園の方向から彼らに語る主の声を聞いた。しかし、主を目にする事はなかった。彼らは主の前から締め出されていたからである。主は彼らに、主なる彼らの神を礼拝し、主への捧げ物として群れの初子を捧げるようにと戒めを与えた。すると、天使は語って言った。『これは、御父の、恵みと真理に満ちている独り子の犠牲の雛型である。したがって、あなたが行う全ての事を御子(イエス・キリスト)の御名によって行いなさい。又、悔い改めて、いつまでも御子(イエス・キリスト)の御名によって神に呼び求め(祈り)なさい。』その日、御父と御子(イエス・キリスト)の事を証する聖霊がアダムに降り、そして言った。『私は初めから、又今から後とこしえに、父の独り子(イエス・キリスト)である。あなたは堕落したので、贖いを受ける事ができる。全人類、真にそれを望む全ての者も同様である。』」(モーセ5:1-9)アダムとエバは『善悪を知る木の実』を食べた事によってエデンの園から追い出され、それまでの、神の顔と顔を合わせて語っていた時とは違い、『信仰』によって歩まなければならなくなりました。「信仰とは待ち望んでいながらまだ見ていないものである。あなたがたは、自分が見ていないからという事で疑ってはならない。信仰が試されてからでなければ、証は得られないからである。」(エテル12:6)「さて、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認する事である。」(ヘブル11:1)アルマ32:22-43に信仰を育む方法が書かれていますので、是非読んでみて下さい。

希望とは何であり,あなたはどのようなことに希望を持っていますか。

現代の私達は情報化社会の中にいて、一方では何でも情報がすぐ得られると便利と思われがちですが、もう一方では情報が氾濫し過ぎて何が正しいのか何が間違っているのか混乱してしまいます。そういった意味では、「道に迷った状態にある」(2ニーファイ2:21)と言えます。しかし、次の聖句にはこう書かれています。「しかし見よ、すべての物事は、万事を御存じである御方(天の父なる神)の知恵によって行われてきた。アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである。そして時が満ちると、人の子らは堕落から贖うためにメシヤ(イエス・キリスト)が来られる。」(2ニーファイ2:24-26)また、このようにも書かれています。「すべて重荷を負うて苦労している者は、私(イエス・キリスト)の元に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心の遜った者であるから、私のくびきを負うて、私(イエス・キリスト)に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。私のくびきは負い易く、私の荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)「これは私達の神の憐み深い御心による。また、その憐みによって、日の光が上から私達に臨み、暗黒と死の陰とに住む者(私達)を照らし、私達の足を平和の道へ導くであろう。」(ルカ1:78-79)以上のことから、『モルモン書』には『希望』について、次のように書かれています。「あなたがたは何を望めばよいのであろうか。見よ、私はあなたがたに言う。あなたがたは、キリストの贖罪とキリストの復活の力によって永遠の命に蘇ることを望まなければならない。あなたがたがキリストを信じることで、約束の通りこれが果たされるのである。」(モロナイ7:41)なぜなら、その理由について、こう書かれているからです。「私はまた、あなたが言われたことを覚えています。あなたは御父の住まいの中に、人のために住む所を用意したと言われました。人がもっと大きな希望を持てるようにするためでした。ですから、人は希望を持たなければなりません。さもなければ、あなた(イエス・キリスト)の用意して下さった場所に受け継ぎを得ることができません。さらに、私はあなたの言われたことを覚えています。あなた(イエス・キリスト)は、世のために自分の命を捨てるほどこの世を愛したと言われました。あなた(イエス・キリスト)は再び御自分の命を得て、人の子らのための場所を用意するために、御自分の命を捨てられたのです。」(エテル12:32-33)そして、私達は教会員になってからも常にこの『希望』を持ち続ける必要があります。「さて見よ、教会の同胞よ、私はあなたがたに尋ねる。あなたがたは霊的に神から生まれているか。あなたがたの顔に神の面影を受けているか。あなたがたは心の中に、この大きな変化を経験したか。あなたがたは、自分たちを造られた御方の贖いを信じる信仰を働かせているか。あなたがたは信仰の目をもって待ち望み、この死すべき体が蘇って不死のものとなり、この朽ちるものが蘇って朽ちないものとなって、死すべき体にあって成した行いに応じて裁かれるために神の御前に立っている有様を見ているか。私はあなたがたに言う。あなたがたはその日、『祝福された者たちよ、私(イエス・キリスト)の元に来なさい。見よ、地の面でのあなたがたの行いは義の業であった』と言われる主の声を聞いて自分自身を、今、心に描くことができるか。」(アルマ5:14-16)このことに対して、『モルモン書』には次のように書かれています。「さて、神を信じる者は誰であろうと、もっと良い世界を、まことに神の右に一つの場所を、確かに望むことができる。この望みは(イエス・キリストを信じる)信仰から生じ、人々にとってその心をしっかりとした不動のものにする錨となる。そしてそのような人々はいつも多くの善い行いをし、神を崇めるようになる。」(エテル12:4)

あなたの生活に影響を与えた救い主の教えにはどのようなものがありますか。

一つ目は「貴方方の天の父が完全であられるように、貴方方も完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)です。私はこれを初めて読んだ時に「神のように完全な者になるなんて、方法も分からないし、絶対に不可能だ」と思いました。しかし『モルモン書』にはこうありました。「私(イエス・キリスト)や天におられる貴方方の父が完全であるように、貴方方も完全になる事を、私は望んでいる。」この違いは「いきなり神のようになれ」というのではなく「イエス・キリストの模範に従えばいいんだ」と理解しました。「私達は、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて、見るであろう。私の知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは信仰と希望と愛と、この3つである。この内で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:12-13)この前半部分と関連した2つの聖句があります。「(神の)御言葉には、貴方方の魂を救う力がある。そして、御言葉を行う人になりなさい。己を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言葉を聞くだけで行わない人は、丁度、自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、その途端に、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめて弛まない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」(ヤコブの手紙1:21-25)「主は霊(的に成長した者)である。そして、主の霊のある所には、自由がある。私達は皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(2コリント3:17-18)末日の啓示には次のように書かれています。「私ヨハネは証する。私は御父の、恵みと真理に満ちておられる独り子の栄光としての、即ち世に来て肉体に宿り、私達の中に住まわれた真理の御霊の栄光としての彼(イエス・キリスト)の栄光を見た。又、私ヨハネは、彼が最初から完全は受けず、恵みに恵みを加えられたのを見た。彼は最初から完全は受けず、恵みに恵みを受け続け、遂に完全を受けられた。」(D&C93:11-13)「私(パウロ)は、更に進んで、私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故に、一切のものを損と思っている。キリストの故に、私は全てを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている。それは、私がキリストを得る為であり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、即ち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストの内に自分を見いだすようになる為である。即ち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難に与って、その死の様と等しくなり、何とかして死人の内からの復活に達したいのである。私が既にそれを得たとか、既に完全になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。兄弟達よ。私は既に捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。即ち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:8-14)二つ目は前述の1コリント13:13の最後の「愛」についてですが、これも『モルモン書』では更に詳細に書かれています。「慈愛は長く堪え忍び、親切であり、妬まず、誇らず、自分の利益を求めず、容易に怒らず、悪事を少しも考えず、罪悪を喜ばないで真実を喜び、すべてを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。したがって、私の愛する同胞よ、もしあなたがたに慈愛がなければ、あなたがたは何の価値もない。慈愛はいつまでも絶える事がないからである。したがって、最も大いなるものである慈愛を固く守りなさい。全てのものは必ず絶えてしまうからである。しかし、この慈愛はキリストの純粋な愛であって、とこしえに続く。そして、終わりの日にこの慈愛を持っていると認められる人は、幸いである。したがって、私の愛する同胞よ、あなたがたは、御父が御子イエス・キリストに真に従う者全てに授けられたこの愛で満たされるように、熱意を込めて御父に祈りなさい。又、御子が御自身を現される時に、私達は有りの儘の御姿の御子にまみえるので、御子に似た者となれるように、又私達がこの希望を持てるように、更に私達が清められて清い御子と同じようになれるよう、熱意を込めて御父に祈りなさい。」(モロナイ7:45-48)

モルモンはなぜ伝道に行くのですか。

2012年10月現代の預言者のモンソン大管長は「男性は18歳から、女性は19歳から伝道に行く事ができます」と発表されました。確かに、専任宣教師としては2年間又は1年半伝道に行く事ができるようにはなりましたが、聖典にはこのように書かれています。「人々が私(イエス・キリスト)の福音に召され、永遠の聖約を交わす時、彼らは地の塩、又人の味と見なされる。」(D&C101:39)この「福音に召され、永遠の聖約を交わす時」とは、いつの事なのでしょうか。『モルモン書』には次のように書かれています。「神に贖われ、第一の復活にあずかる人々と共に数えられるように、いつでも、どのような事についても、どのような所にいても、死に至るまでも神の証人になる事を望んでいる。真に、私は貴方方に言う。貴方方が心からこれを望んでいるのであれば、主から益々豊かに御霊を注いで頂けるように、主に仕えて主の戒めを守るという聖約を主と交わした証拠として、主の御名によってバプテスマを受けるのに何の差し支えがあろうか。」(モーサヤ18:9-10)つまり、「福音に召され、永遠の聖約を交わす時」とは、バプテスマを受けた時点からになります。ですから、正確には「伝道に行く」というよりも「伝道する」の方が正しいと思います。では、「なぜ伝道する」のでしょうか。私は2011年10月に癌の3度目の摘出手術をし入院中に聖霊の力によって特別に学んだ事をここで分かち合いたいと思います。「神の御子は、あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。これは、神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉が成就する為である。又神の御子は、御自分の民を束縛している死の縄目を解く為に、御自身に死を受けられる。又神の御子は、肉において御自分の心が憐れみで満たされるように、又御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知る事ができるように、彼らの弱さを御自分に受けられる。さて、御霊は全ての事を御存じである。にも拘わらず、神の御子は御自分の民の罪を負い、御自分の解放の力によって彼らの背きを取り消す為に、肉において苦しみを受けられる。さて見よ、これが私の内にある証である。」(アルマ7:11-13)私はこの聖句について聖霊の力によって理解したいと手術前に思い、祈っていました。すると、次の聖句を思い出しました。「よくよく貴方方に言っておく。貴方方は泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。貴方方は憂えているが、その憂いは喜びに変わるであろう。女が子を産む場合には、その時が来たというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみを覚えていない。一人の人がこの世に生まれた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、私は再び貴方方と会うであろう。その喜びを貴方方の心は喜びに満たされるであろう。」(ヨハネ16:20-22,ルカ15:7)「人々から侮られて捨てられている彼(イエス・キリスト)は悲しみの人で、悲哀を知っている。そこで私達は、彼から顔を背けるかのように振る舞った。彼は侮られ、私達は彼を尊ばなかった。真に彼は私達の悲哀を負い、私達の悲しみを担った。ところが私達は彼の事を、打たれ、神に罰せられ、苦しめられているのだと受け止めた。しかし彼は、私達の背きの為に傷つけられた。私達の平安の為に、懲らしめが彼に及んだ。彼の鞭の打ち傷によって、私達は癒されている。私達は皆、羊のように迷って、各々自分の道に向かって行った。主(御父)は私達全ての者の罪悪を彼に負わせられた。彼(イエス・キリスト)を傷つける事は主(御父)の御心に叶っていた。主は彼に苦痛を受けさせられた。貴方が彼を罪の捧げ物とする時、彼は自分の子孫を見てその命を延ばし、主(御父)の御心は彼(イエス・キリスト)の手によって栄える。彼(イエス・キリスト)は自分自身の苦しみを知り、それに満足する。彼の知識により、私の義に叶った僕は多くの者を義とするが、それは、彼(イエス・キリスト)が彼らの罪悪を身に負うからである。」(モーサヤ14:3-7,10-11)「イエスは言われた、『貴方方は自分が何を求めているのか、分かっていない。貴方方は、私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマ(伝道)を受ける事ができるか』。」(マルコ10:38,ルカ22:42-44)「ある人々が肉体にも霊にも大いに価値があると思う事を、他の人々が何とも思わないで足の下に踏みつける事がある。真に、イスラエルの真の神(イエス・キリスト)ですら人々は足の下に踏みつける。足の下に踏みつけると言ったが、言い換えれば、彼らは神を取るに足りない者として、その勧めの声に聞き従わないという事である。」(1ニーファイ19:7)私は主に倣い伝道します(エノス1:26)。

わたしの信仰生活について

私の非常に引っ込み思案な性格を何とかしたいと心配していた母の勧めで、1970年にボーイスカウト活動に加わり、そこでスカウト精神(イエス・キリストの奉仕の精神)を身に付け、真理を探究しつつ、また地元市原市のためにも何か自分にできることはないかと中学生の頃から思っていました。1981年に、私の所属していた大学ローバースカウト部の赤津先輩が、このイエス・キリストの奉仕の精神(光)を持っているモルモンであることを認め、彼女から宣教師を紹介してもらい、東京の巣鴨でモルモンに改宗しました。1年後に大学の専門課程で自宅から通学できるようになって千葉の教会に移った時に、自分の経験を生かすべく、千葉の教会でボーイスカウトを始め、奉仕できる機会を得ました。ただ、地元市原市のためには何も奉仕する機会を得ていなかった私自身には満足できていませんでした。私は、ボーイスカウトの原典ともいえる『スカウティング・フォア・ボーイズ』の前書きに書かれてあった言葉を思い出して、地元市原市で『福音を宣べ伝える』ことこそ、私の使命であると思いました。1985年から2年間専任宣教師として神戸伝道部に召され、多くのことを学び、1990年から青柳長老姉妹の協力を得て、地元市原市で英会話を始めるようになり、その後市原支部が設立されました。2013年2月におゆみ野に教会ができたことから、これからも市原市で福音を宣べ伝えることで、私は奉仕していきたいと思います。