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あなたの生活に影響を与えた救い主の教えにはどのようなものがありますか。

  • 福音のおかげで、ほかの人の欠点や不完全さを受け入れることができるようになりました。天のお父様とイエス・キリストに愛されているということが、私にとって原動力となっています。 表示件数を増やす

  • 私は母親から「おまえのひいおじいさんは本当にいい人だった。神様のような人だった」と聞かされていました。 そしてなぜか、宣教師と会う前あたりから自分の曽祖父のことがずっと思い出されていました。その後死者の贖いについての話を聞いたとき、先祖のために儀式を受けたいと思いました。 教会に入って1年後、神殿で先祖のための儀式を受けました。結び固めの部屋に入った瞬間、御霊を強く感じました。儀式を受けると、とばりがとても薄くなって、霊界と自分の現世がごく近くなったのを感じました。今おじいちゃんとおばあちゃんが微笑んで見ていてくれた、と強く感じました。そして今自分が改宗したのは先祖のみなさんがそのためにずっと祈ってくださっていたからなんだ、と感じました。私が宣教師と会うことができたのも、子孫が福音を受け入れるようにと先祖がずっと願い求めていたからなんだとわかりました。 表示件数を増やす

  • モーセの律法を知った時、これは分かりやすくとても大切なものだと感じました。 表示件数を増やす

  • 大切なのは人ではなく神様に頼ることだと思います。教会の中の人を頼みにするのではなく神様に頼る、言い換えれば預言者に従うようにすれば、人につまずいて教会を離れたりしないのではないでしょうか。聖典もただ読むだけではなく、深い意味が理解できるように努めることが大切だと思います。 表示件数を増やす

  • すべてですが、イエスキリストの贖いの教えはすごく私に希望や平安をもたらします。 表示件数を増やす

  • 神様と一緒に家族と住める。 表示件数を増やす

  • 救い主の教えの中に”十戒”というのがありますが、これは預言者のモーセが民を導く際に主に教えを願ったときに石の版にその教えの10個を書かれました。 その際に”十戒”と呼ばれるようになったものなんですが、この中には人として基本的に守るべきことが書いてありますが、その中で ”あなたの父と母を敬え” とありますが、この聖句から日頃何気なく生活しているのが普通だと思っている中で自分も毎日父と母に感謝を示せているだろうかと思う時がありました。 小さいころからそばにいてくれる父と母に、自分は何不自由なく暮らせていることに何の疑問もありませんでしたが、ある時母が病気になり幼い自分はその時にどうしたらいいかわからずにいましたが、その時は父が母の代わりにご飯の準備や寝る準備をしてくれていたことは記憶にあります。また、自分はその時まで自分では何もできないことを知りました。また、もし急の事故で両親を亡くしたらと考えた時はいてもたってもいられませんでした。この頃は教会にまだ改宗してませんのでしょうがありませんが、大切なことを学んだような気がしていました。今ではその意味がよくわかります。またその教えは自分が生まれる前から昔からあったものだということも知ることができ、自分が学ぶべきことが他にもまだあることを知りました。家庭の中を良くしていくことによって、家庭の中が笑顔であふれてくることを知っています。 表示件数を増やす

  • わたしは結婚したばかりのころ、とても高慢でした(今でもそうかもしれませんが...)。 妻や子どもに対して、あるいは他の人々に対して「どうしてこれができない。」「なぜこうしない。」という思いを持ち、言葉で彼らを傷つけていました。 わたしは毎日イライラし人を裁いていました。 ある日、モルモン書を読んでいると次の言葉が心に沁み込んできました。 『すると天使はわたしに、「神が御自身を低くされることがあなたに分かるか」と言った。(Ⅰニーファイ11:16)』 わたしの答えは次のニーファイの答えと同じでした。 「わたしは、神がその子供たちを愛しておられることは知っていますが、すべてのことの意味を知っているわけではありません(Ⅰニーファイ11:17)」 この言葉の後にはキリストの誕生のシーンが描かれていました。 天使は言いました。 「神が御自身を低くされる様子を眺めてみなさい。(Ⅰニーファイ11:26)」 そのあとは、キリストの生涯が描かれており、十字架につけられて殺されるシーンをニーファイは見ました。 これを読んだ瞬間、わたしの体は震えました。 涙が流れてきました。そして、後悔の念でいっぱいになりました。 イエス様はすべての人のためにその命を犠牲にされました。 たとえわたしたちがイエス様の贖いを必要としているいないに関わらず、また、わたしたちが不完全であるにも関わらず、わたしたちを愛しているがゆえにその身を犠牲にされたのです。 そのことを知った時、不完全で罪深いわたしが、他の人を裁いていいはずがないと感じました。 完全な方であるイエス様は、人々に寄り添い、励まし、力づけてくださったのに、わたしは人々を裁き、寄り添うことをしていませんでした。 自分はただただ高慢になっていただけだったのです。 この日からわたしは変わりました。 もちろん一度に変わったわけではありません。 少しずつ少しずつ変わっていきました。今でも変わり続けています。 もし、この経験がなければ、わたしは人を裁くことを続けていたでしょう。 わたしを変えてくださったのは間違いなくイエス様です。 自分自身では気づくことさえできなかったことを気づかせ、変わる勇気と力を与えてくださったのです。 救い主には確かに人の性質を変える力があることを知りました。 わたしたちも謙遜になって信仰を持ち、主に心から頼るなら、主はわたしたちを強くしてくださり、さらにわたしたちは救い主に近づくことができるのです。 表示件数を増やす

  • 一つ目は「貴方方の天の父が完全であられるように、貴方方も完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)です。私はこれを初めて読んだ時に「神のように完全な者になるなんて、方法も分からないし、絶対に不可能だ」と思いました。しかし『モルモン書』にはこうありました。「私(イエス・キリスト)や天におられる貴方方の父が完全であるように、貴方方も完全になる事を、私は望んでいる。」この違いは「いきなり神のようになれ」というのではなく「イエス・キリストの模範に従えばいいんだ」と理解しました。「私達は、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて、見るであろう。私の知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは信仰と希望と愛と、この3つである。この内で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:12-13)この前半部分と関連した2つの聖句があります。「(神の)御言葉には、貴方方の魂を救う力がある。そして、御言葉を行う人になりなさい。己を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言葉を聞くだけで行わない人は、丁度、自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、その途端に、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめて弛まない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」(ヤコブの手紙1:21-25)「主は霊(的に成長した者)である。そして、主の霊のある所には、自由がある。私達は皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(2コリント3:17-18)末日の啓示には次のように書かれています。「私ヨハネは証する。私は御父の、恵みと真理に満ちておられる独り子の栄光としての、即ち世に来て肉体に宿り、私達の中に住まわれた真理の御霊の栄光としての彼(イエス・キリスト)の栄光を見た。又、私ヨハネは、彼が最初から完全は受けず、恵みに恵みを加えられたのを見た。彼は最初から完全は受けず、恵みに恵みを受け続け、遂に完全を受けられた。」(D&C93:11-13)「私(パウロ)は、更に進んで、私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故に、一切のものを損と思っている。キリストの故に、私は全てを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている。それは、私がキリストを得る為であり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、即ち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストの内に自分を見いだすようになる為である。即ち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難に与って、その死の様と等しくなり、何とかして死人の内からの復活に達したいのである。私が既にそれを得たとか、既に完全になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。兄弟達よ。私は既に捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。即ち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:8-14)二つ目は前述の1コリント13:13の最後の「愛」についてですが、これも『モルモン書』では更に詳細に書かれています。「慈愛は長く堪え忍び、親切であり、妬まず、誇らず、自分の利益を求めず、容易に怒らず、悪事を少しも考えず、罪悪を喜ばないで真実を喜び、すべてを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。したがって、私の愛する同胞よ、もしあなたがたに慈愛がなければ、あなたがたは何の価値もない。慈愛はいつまでも絶える事がないからである。したがって、最も大いなるものである慈愛を固く守りなさい。全てのものは必ず絶えてしまうからである。しかし、この慈愛はキリストの純粋な愛であって、とこしえに続く。そして、終わりの日にこの慈愛を持っていると認められる人は、幸いである。したがって、私の愛する同胞よ、あなたがたは、御父が御子イエス・キリストに真に従う者全てに授けられたこの愛で満たされるように、熱意を込めて御父に祈りなさい。又、御子が御自身を現される時に、私達は有りの儘の御姿の御子にまみえるので、御子に似た者となれるように、又私達がこの希望を持てるように、更に私達が清められて清い御子と同じようになれるよう、熱意を込めて御父に祈りなさい。」(モロナイ7:45-48) 表示件数を増やす

  • その日、父を病院に連れて行くために石巻へ行きました。帰り道に目が疲れたので、松島のコンビニの駐車場を借りて仮眠をとっていると、突然激しい揺れがきてとび起きました。家に帰らねばと思い、車を走らせて多賀城の八幡辺りまで来るとひどい渋滞になっていました。防災車が「10mの津波がくるので逃げてください」と言っているのは聞こえましたが、ここは海岸近くではないし大丈夫だと思いました。歩行者はみんな歩道橋に登っていて私たちの方を指さしています。車に乗っている私には見えなかったけれど、すぐ後ろに津波が来ていたのでした。 「これは何?」 飲み込まれた時、それが津波だとすぐには認識できませんでした。何秒かして津波だと気づき、すぐに両サイドの窓を開けました。夫の知人の経験から、水害にあったらエンジンが止まる前に窓を開けなさいと聞いていたからです。何とか脱出しなければと思いながら浮いた車の中から様子をみていると、長い棒が流れてきました。私はそれを取り、水深を測りました。とても背が立ちません。やっと背が立つ所まで流されたので窓から脱出しました。脱出する際、思い立って車検証をバッグに入れました。後にそれが大変役に立ちました。 胸まで水につかりながら歩いていると、「助けてください」という声が聞こえました。車の中に大人3人と子供3人が乗っていたのです。後部窓を内側から割って子供たちを出そうとしているところでした。辺りを見回すとちょうど子供3人くらいが乗れる家具が流れてきました。それに子供たちを乗せ、車から這い出したみんなと一緒に引っ張りました。途中で深みにはまり首まで水につかって泥水を飲んでしまいました。 濡れて汚れたまま歩いていると、手招きをして呼んでくれる人がいて家に入れてくれました。消防団の団長さんのお宅でした。ストーブで暖めてくれて、おにぎりをくださり、着替えもさせてくれました。その日は他の被災者たちも一緒にそのお宅に一泊させていただきました。消防団長さんは夜中まで救助に出かけていらっしゃったようです。 翌朝、自宅を目指して歩き出しました。45号線を歩くつもりでしたが、所々水で遮断されている箇所があったのでそういうところは線路を歩きました。大勢の人が線路の瓦礫をよけながら歩いていました。「頑張ってね。」と声を掛けてくれた人もいました。しばらく行くと、長年会っていなかった人とばったり出会い、運よく車に乗せてもらえました。 やっと自宅に着くと、夫はわたしが死んだかもしれないと心配していました。家は半壊の状態でした。ご近所では食料が不足し、特にデイサービスのお年寄りが困っていました。わたしは食料をたくさん貯蔵していたので、それを差し上げることができました。喜んでいただき、とてもうれしかったです。 今回の災害を通して、備えることの大切さを学びました。そしてみんなで助け合い、大変なときを乗り越えました。たくさんの物を無くしましたが、たくさんの事を学びました。 (冊子『東日本大震災 被災地からあなたへ』(One Step〈ワンステップ〉著、同社 刊)より抜粋) 表示件数を増やす

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